2021.01.06

プライスタグ作品概要

2007年
友野祐介の初の商業映画監督作品

監督/脚本 友野祐介

新入社員が社長に聞く!

― 一応、これが友野さんの商業作品ってことになるんですかね?

友野:
だな。
一応出資がついて、これで一本仕事として
とってください、と。

― ていうかこの出資元、よく見たら
「君の名は」とか「天気の子」の新海誠監督と一緒じゃないですか。

友野:
正確には当時はブルズ・アイって会社だったけどな。
コミックス・ウェーブ・フィルムの部署違いっていうか。

― しかも主演は小嶺麗奈さん!
見てましたよ!金八先生!

友野:
そうだな。
これもよく出てくれたよ。
俺にとっては金八より
石井聰亙の「ユメノ銀河」がデカいんだけど。

― じゃあ、嘘じゃなく本当に
晴れて映画監督になれたって事なんですね。

友野:
いや、でも小規模の映画の予算なんて
たかが知れてるからね。
もちろんそれでも俺たちにはありがたかったけどさ。
自分のギャラなんか取るよりも、とにかく予算は全部制作に使って、
バイトで生活費を稼ぐっていう。

― そんなの、映画監督っていうか、実質ただのフリーターじゃないですか。

友野:
そうなんだよ。
ある程度の規模までいかないと、その苦境は脱せないと思うね。

― ある程度の規模っていうのは具体的には?

友野:
まあ、テレビの脚本とかにいければ、収入はとりあえず。

― え、そうなんですか?
でも映画界って基本テレビを下に見てるとか、
そんなんじゃなかったでしたっけ?

友野:
卑賤扱いされるものが商業的に成功するってのは
ある意味で真理だろ。

― まあ商業的に成功してるから
やっかみで卑賤扱いするってのが真理な気もしますが。

友野:
どっちでもいいけどよ。
とにかく日本には、職業=映画監督 ってやつは
かなり少ないと思うぜ。
「万引き家族」の是枝監督なんかも、
本業はテレビマンユニオンの役員だろ。

― あそこまで行けば本業は映画監督なんじゃないですか。

友野:
どっちでもいいけどよ。
まあ、俺の行ってた大阪芸大でも、
どこぞの映像学科でも、まず教えることは
「仕事があっても食えないよ」って事だと思ったけどね。

― どの辺りから食っていけることになるんですかね。

友野:
商業的には日本で一番でかかった90年台の
「ゴジラ」の監督と脚本料合わせて一千万だって聞いて
俺はもうだめだと思ったね。

― え? どこがだめなんです?

友野:
業界のてっぺんの方に登りつめて
毎年ゴジラを撮ったとしても、年収が一千万なんだぜ?
それって、なんだか虚しくないか?

― それでも今の友野さんの給料より、
全然いいじゃないですか。

友野:
俺はまだ坂の途中だから、それでいいんだよ。
ていうかなんで俺の給料をお前が知ってんだよ。

― まあとにかく、貧乏がつらかったと。

友野:
まあこの「プライスタグ」って映画も、
そういう「若者は金が無い。どうすりゃいいんだ?」ってことを
子供の目を通して見ていくっていうのがテーマだったからな。

― 相変わらず映画にかこつけて自分の問題ばかりを考えていたんですね。

友野:
俺の問題はどこにでもいる若者の問題だから
それでいいんだよ。
それこそ一般性ってやつだ。
でも、まあ、日本映画としては、ウケなかったな。

― そうなんですか?

友野:
入りは期待された程度。
批評家は相手にもせず、ってとこだな。

― まあ、そんなもんじゃないんです?
制作費一億円以下の小規模映画なんて。

友野:
ま、そうだな。
でも俺としちゃ色々考えたわけだよ。
自主制作的なシナリオじゃダメだと思って
起承転結で色々説明して、とか。
アート映画じゃなくてスピルバーグを研究したりとかな。

― ああ、売れたかったんですね?

友野:
そう。
で、見た人からは「わかりやすい」って
感想なんかももらったりはしてたけど、
自分の生活を変えるほどのブレイクスルーにはならなかった。
ということは、このバイト生活が当面は
続くってことだろ。

― でも、そういうもんなんじゃないですか?

友野:
俺はまだいいけどさ、学生の頃から付き合ってくれてる
スタッフなんかは流石にもう無理だろ。
朝の4時に撮影が終わって「次の集合時間は?」って聞くと
「朝6時です」なんて言われる生活はさ。

― 次の日の朝6時なら、26時間は空いてる訳だし・・・
まあ、なんとかなるんじゃないですか?

友野:
馬鹿、その日の6時だよ。
つまり二時間後。
その間にできることなんて、車中での仮眠ぐらいだ。
それが一ヶ月続いてみろよ。

― ・・・。

友野:
ま、とにかく撮影の途中から
「これはもう無理かもな」ってのはあったんだ。
封切りがそれこそ「カメラを止めるな!」ぐらいにヒットしない限りは。
でも、そうは行かなかった。
かつ、批評とかでも蚊帳の外って感じだったからな。
内田樹さんからコメントを頂いて、後は
映画批評から原稿の依頼が来たくらいで。
今時の若者の苦悩、って意味じゃ
それこそダルデンヌ兄弟とかと、考えてることは
変わらないと思ってたのに。

― その時の日本映画って、どういうのが
評価されたりとかヒットしてたんですか?

友野:
興行収入だと
パイレーツ・オブ・カリビアンとか、HERO。
日本アカデミーはフラガール、だな。

― まあ、妥当な気はしますけど。

友野:
ま、そこより規模が小さいやつだと
とにかくなんか急に売春婦が出てきて主人公に惚れたりとか
気が狂ったやつがとんでもなく暴力的で・・・みたいなのが
トレンドで、そういうのもなんかイヤだったんだよ。

― まあ、それは今も一種のトレンドですよね。

友野:
そこで頑張ったとしてもゴールがゴジラで・・・とか
考えたときに自分には何ができるんだってことを
考えるわけだよ。

― まあ、映画を撮るって事以外は、
ただのアルバイトしかやってきてないわけですからね。

友野:
そんな時、学生映画のときもコメントをくれてた
小中千昭さんってシナリオライターの方から、
メールを頂いてさ。
そこに「こんな丁寧な作品がスルーされるなんて許されない」みたいな
言葉があったんだよ。
それで、俺はもう「これは業界の構造の限界なんだな」と
思い至ったわけ。

― 単なる才能の限界じゃないのかな。

友野:
どっちでもいいけどよ。
まあ体力的にも限界を感じたな。
編集作業の時も、徹夜に次ぐ徹夜で、
一本1200円のユンケルでそれをふっとばそうとするんだけど
最終的にはそれを飲みながら気絶したみたいに寝てるっていう。

― で、そんな各種限界と、
奇妙なルサンチマンがこじれて
その後ゲーム業界の門を叩く訳ですか。

友野:
そうだな。
後は次の項でやるか。
続く!