2021.01.06
内田樹(神戸女学院大学文学部教授)
「子どもとお金」という主題は考えてみたら触れられることの少ない
(というより無意識的には避けられてきた)ものだということを
映画を見て思い出しました。
おそらく「子どもはできるだけお金に触れない方がいい」という
人類学的な知恵がまだ残存しているためでしょう。
それも当然で、子どもというのは定義状「労働しないもの」だからです。
労働しないものにとって、貨幣はただの「記号」あるいはただの「数字」です。
でも、労働しようがしまいが、貨幣を持つものはそれを使用するときに、
貨幣がある種の全能性をもつことを知ります。
子どもがお金をもち、それを使うというのは、
言い換えると「記号は全能である」という倒錯のうちに投じられることです。
その倒錯に迷い込まないために、子どもに対しても、
貨幣は「労働の対価」としてしか与えられないといううるさい条件が課された。
そうすれば、貨幣を媒介にして、「労働は全能である」という(健全な)幻想を
子どもに刷り込むことができるからです。
映画の主人公の「正ちゃん」は「お金を持たない存在」(赤ちゃん)から、
「記号としてのお金を持つ存在」(子ども)、
「労働の対価としてお金を得る存在」(大人)へと
急ぎ足で階梯をのぼり、
最後はなんと「担保を差し出し、有利子のお金を借りる存在」(投資家)へと
成長してゆきます。
「投資家」段階まで子どもが行き着く必要があるかどうかについては
(人類学的見地からは)疑問があるのですが、
そこらへんがあるいは「現代的」な切なさなのかも知れません。